読み始めたきっかけ

 突如私が古典なんかを読み始めたきっかけは何なのか。それは,塩野七生の「サイレントマイノリティー」を読んでいたとき,違う文化を持つもの同士が理解し合うためには,その背景となる慣習や常識を知らなければならないという至極当たり前のことに,あらためて意識を向けられたからである。頭では分かっていることであるが,実際にそのギャップを感じてみない事には「彼らの常識についての知識を持とう」という意欲は持てなかったのだ。
 その具体的なギャップの一例が「サイレントマイノリティー」の中に書かれていた。それは,「西欧社会では『話せば分かる』と思いこんでいる人のことを『カッサンドラ』といって揶揄する」ということ。カッサンドラはトロイアの王女で予知をよくしたという。トロイアの滅亡を予知し,それを避けるために人々にいろいろ説いて回ったが,誰も耳を貸さなかったためトロイアは滅亡した。なぜ誰もカッサンドラに耳を貸さなかったのか。それは,カッサンドラが何ら力(権力)を持たなかったからである。後世マキアヴェッリは同じことについて「力を持たない預言者は滅亡する」といった。このような文化を持つ西欧人に対して,日本(人)は「話をして分かってもらおうとする」ことが得てしてある。これではなかなか理解が得られないのも当然といえば当然の事だ。しかし,日本(人)の側で,「カッサンドラ」という揶揄や,その背景を知っているならば,また違ったアプローチが可能であろうし,取り組み方を変える日本人も多いであろう。日本(人)の側が全てあわせなければならないという事はないかもしれないが,所詮文化を共有する人間の数・国の数では日本は太刀打ちできないのだから,日本(人)の方であわせた方が話は早いだろう。そんな事を思った。
 もう1つの例はもっとお軽いたぐいの話だ。私はそんなに本を読むほうではなくなってしまっているし,読むものも推理小説くらい。その数少ない読み本の中にリリアンジャクソン・ブラウンの「シャムネコ・ココ」シリーズがある。推理小説としては面白味に欠ける部分も随分あるけど,なんといっても私は大のネコ好きなのだから。架空の街が登場するが,そのまちの長老(?)で引退した校長で,街の「歴史」を調べる事をライフワークとし,「聴けばなんでも話してくれる」じいさんがしょっちゅう出てくる。彼の名はホーマー・ティビット。だが,私は数冊読むまでそのファーストネームホメロスの英語読みである事に気付かなかったのだ!!多分,同じようにちょっぴり「ふふっ(笑)」と思えるようなエッセンスをずいぶん読み落しているに違いない。こんなもったいない事ないじゃないか。だから,遅まきなからでもちょっとずつ西欧人の常識の根底にある古典なんぞを読んでみようと企んでいるのである。