人の上に立つということ

 人の上に立つということは偉くなることではない。権力が増すことでもない。ただひとえに責任が増すということだ。その増大した責任を果せる器であろうと周りが認めていること,またその責任を立派に果したこと,その二つによって初めて尊敬されるのであり,その結果として大きな権限を任されるようになる。それが「高い地位」というものの本質ではなかろうか。そして,自分が実際に関知していない「下の者の行為」についても「ほぼ」無条件に責任を取らされる立場にある。その責任が取れない者は人の上に立つ資格はないし,器でもない。ましてや自らの判断が一定の範囲であれ関わったのであれば,なおさらその責任は重く圧し掛かって当然だろう。私はそう思っている。
 日本代表監督のジーコは「なぜ私がそんなに責められなければならないのか」とのたもうたらしい(私は実際の記事読んでないので伝聞だが)。このひとことで,彼は人の上に立つ立場,つまり監督(指揮官)の適性がないことを自ら告白したようなものだ。まあ,あくまで私の視点からしてだが。とにかく,ジーコが選んだ選手が結果を出せなければ,それはジーコの責任。それが監督というもの。「チャンスは作っているのだから自分には責任なし」とは,はっきり言ってかなりお粗末な話だ。
 こんなことを感じて「さっさと監督とっかえてくんないかなぁ〜」などとぼやく私の耳に,「上に立つもの」不適格者に対して付きつけるにうってつけの言葉が飛びこんできたじゃありませんか。そう,最近大はやりのあの言葉。今年の流行語大賞にもなってしまうかもしれない(←気が早いっての)あの言葉。ジーコ(&彼を「独断で」選んだ川淵)に突きつけたいあの言葉。それは「自己責任」。無謀にもイラクに行ってひっつかまった人達に対してだけでなく,日本サッカー協会方面に対してもこの言葉はとてもしっくり来るのではないかと思う今日この頃。